these foolish things

Prejudice and Fiction

21世紀宇宙の子ならではの悩み

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21世紀宇宙の子

21世紀宇宙の子

正直この曲そんな好きじゃないけど事変なのでアリ




小野ほりでいを筆頭にSNSバカを体系化してくれるライターを見ては感心している、なんだかそれだけでは悶々としてすまったのです(津軽)


SNSについて書いてしまうこと自体、近視眼ぶりがバレてしまう感触がして恥ずかしいやら気持ち悪いやらで気がひけるのだが…。










けれども!

わざわざ綴ることにはやはり意図がある。生活を送る上で看過できなくなったSNSの嫌な側面は誰もが感じているはずだが、それを整理できているかと言えばそうではない。なんなら自分自身もそうである。

だからこそ(自分の首を絞めかねないのだが)私がプロ倫ばりに深めの楔を打ち込んでやろうオラオラという魂胆である。ごめんなさいウェーバーそんないいモンじゃあないんだよ。



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あとやっぱ、個人がある思いを持って綴ることがメディア産業への処方箋にもなるんじゃないかと恐縮ながら思っている。

SNS 嫌」と検索窓に放り込んで、味のない金太郎飴みたいな低質まとめサイトを ウソまだ3ページ!?8ページもあんの!? とか思いながら無意識にそして受動的にポチポチしてしまう。そして広告料の発生を支援する形で無駄に経済をかき回してしまう。広告料こそが低品質高価格文化を作り出しているけど、マーケティング的には消費者認知度UPが云々で広告最高サイバーエージェント電通ウハウハとか、とにかく今のメディア産業は何かにされているとしか思えない日本死ね。けど壊せない。

ちなみにこの話はおもしろいよ!

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ではまず、自分のSNSに対する大前提のスタンスを控えておこう。話はそれからだ。




大前提:Twitterはマジで単なるつぶやきでしかない





本来つぶやきはひとりでするものだが、つぶやきに「社会性」とかいう価値を与えて「ツイート」にしたTwitter社はなんだかすごすぎる。パンにジャムつけるくらいの付加価値しか普通思いつかなくない?すごすぎる。しかしながら、ツイートはあくまで単なる個人のつぶやきであるというスタンスからすると、ツイートの社会性を否定できる。自分はあくまでこのスタンスを保持したいと考えている。


(でも「いいね」が押されると嬉しい。とても悔しい。)


だから他人のツイートにいちゃもんをつけること自体、この記事全体の自己否定なのである。そんなグラグラの足場でこの記事を書くのは、他人のツイートが単なるつぶやきとして見るにはあまりに社会を巻き込みすぎているように感じるからである。













ではやっと本題である。
SNS、てかTwitterの嫌な側面をPickUpしていく。以下、「好き」で語れる人間でありたいという希望はひとまず置いといて、「嫌い」で語ることを以て全力で他人の揚げ足をとっていこうと思う。性格の悪みがすごい。





  • 自慢マン

他人からチヤホヤされたい欲が昂ぶって自分のピカピカ功績を自慢してしまうマンは、暗に自分が他人の不安を煽りたい欲に蝕まれていることに気づいていないがち。

  • エセ啓蒙活動マン

こちらは自慢マン・改である。完全に他人の不安を煽ってやろうという邪悪な意思を持っている。本来の啓蒙の姿とは全く異なり、自分のカリスマスキル育成のためだけに格差見せつけがち。

  • 彼氏(彼女)見せつけマン

単に"報告"という形でなら微笑ましくて良い。けれど、報告が過ぎるアベック多くね? 目的が別にあるならそれはそれは結構なことだけども、〇〇君じゃなくて"彼氏"という概念を持っている「自分」に酔ってたり、かっこいい〇〇君に選ばれた「自分」のかわいさをひけらかしたりしてるだけじゃないのか。2人の世界を過剰に他人と共有することに違和感を覚えないがち。2人の世界は2人で十分に楽しめるはずなのになんて傲慢なんだ。ゆるさんぞ

  • 意味深マン

日本語は主語や目的語が抜けても文意が通る美しい言語だと思うが、それを巧みに操ったつもりか、誰に何を言っているのか不明瞭な愚痴を垂れ流すならず者がいる。だいたいそういう人は愚痴をこぼせるような友達がいないからTLに垂れ流してしまうのかなと見ている。また、やんわり察してほしいからという理由で意味深ツイートを並べる人は、もちろん友達が少ないし単純に意気地なしがち。

  • しんどいマン

疲れたつらい寝てない飲み過ぎた潰れた吐いた等、なんだか本当にしんどそうな人がいる。しかしながら、「しんどいのは本当におつかれさまです、でもそれは自分が大きな見返りを望んだ結果として選んだ道、もしくは自己管理能力の甘さに起因するもんなんだから我慢するしかないね。嫌なら辞めれば? 自分探しの旅でもすれば? 」嫌な人にはそう告げられてもおかしくない。私は断じてそんな人でなし発言などしないが。

  • 二番煎じマン

いわゆる借り物の論理・借り物の姿勢を多用してしまう。借り物であるということを前置きにしさえすれば良いのに、プライドが高いためかなんだかどうも突っ張って見えてしまいがち。"オリジナルであれ"ということではなく、"参照したことを隠す必要はないよ"ということである。

  • 俯瞰マン

これは私にも当てはまる。治したいので戒めとして書きたい。斜に構えすぎマンとも言えよう。何かに意気込む自分までも俯瞰してしまい、お高く論理の世界に留まってしまう。行動に移せる人を羨んでか、「どうせ」という枕詞から始まりプロセスを鑑みることなく結果至上主義を貫いたフリをする。そんなアナタのラッキーアイテムは「好き」の原動力である。「好き」なものには無心で、俯瞰なんてする暇も無く意気込めるはずだ。











目に付く不快なTwitterの側面はひとまずこれくらいだろうか。人々が我慢して言わないでおこうとしている「嫌い」を幼稚にも列挙してしまって、そしてそれを公開してしまって、申し訳なく感じてはいる。別に自分がコメンテーターになったつもりなんてさらさら無いし、綴った後に残るのは達成感より申し訳なさの方が大きいように思う。

女子大生のSNOWはまったく不快じゃないし、微笑ましいレベルに彼氏ツイートを控えているその慎ましさは美しく思えるし、何かにチャレンジできている人は羨ましいし、やはり「好き」で語ることもできるはずである。しかし善意というのは高尚なもので浸透しにくいのが難点であり、なんだかそんなことを雑記に書いてもおもしろくないな、というのがある。そのため、自分の不快だと思う像を不快なまでに列挙してしまった。やはりなんだか申し訳ない。








finish
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芯について

たかが2週間の留学に行ったくらいで揺さぶられるような価値観は御免だ。誰しも、自分の根源にある考えとか座右の銘とか、禁欲的に則って動ける指標を20歳までには内面化できているはずである。正しいかどうかは別として、「そういった指標がある」と自信を持って言えない人はやはりいろいろ難しいんじゃないか、そう思う全休の水曜日であった。






(3911字)(暇すぎ)