these foolish things

Prejudice and Fiction

灰色

 

 

ここ数年、僕はなんでもかんでも理由を求めたがる。

 

キッカケは彼女。

彼女には、アホみたいに高級なレストランに隔週で行ってはアホみたいに全皿写真を撮ってっていう習性がある。それが災いして、記念日とかイベントにかこつけて月に2回僕もフレンチを味わうことになりかけた。2019年の12月とかかな。

 

格式高い雰囲気の中で、自炊では到底辿り着けないメシを食べられるからフレンチは好きなんだが、それをハイスパンでする理由は見つからない。そもそもそんなに金が無い。だからモメた。

 

その過程で、なんでハイスパンであんな高いメシを食いたがるのか、何がしたいのか、と動機の部分にフォーカスを当てるとまあいろいろ答えが返ってきたが、僕には到底辿り着けない世界だった。残念ながら、人と人とは分かり合えない。期待しちゃダメだ。

 

 

ここで一種の恐怖を覚えた。

自分の「好き」に理由がない、そんな人ばっかじゃねえか、と。消費するだけして、感想がない。「好き」に対して心の奥底の原体験との繋がりがないってのは、どうもおかしい。何者かによって「好き」と言わされているほかない。

 

んで、僕も知らず知らずのうちに空虚な消費をしてるんじゃないか、とメタに引いた。自分の「好き」に対して言葉が紡げないのは生きている心地がしない。

 

 

自分には割とショッキングだったようで、それから何事にも理由を見つけられているか、プロテスタントの如く心に手を当ててみるようにしている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『花束みたいな恋をした』を観た。長く付き合ったカップルが別れる話、と聞いて怖いもの見たさで以前から気になっていた。

 

感想を留めておこうと思う。

 

とにかく一部始終、ずっとシンボル。長く付き合うあるあるとサブカル好きカップルあるあるが単に一本の筋書きに並べられただけの映画。安い映画だな、と思った。

 

…のは、観た直後。

 

銭湯でポカポカしながら考えていたら、カラダのととのいに伴って映画も整理できた。

 

映画が安いんじゃなくてカップルが安いのであって、映画はそれを風刺しているだけなのか、と。

そう思うとあらゆるシーンがなかなかヘビーな皮肉で飾られてたなあとフラッシュバックされ

た。

 

たとえばさ、お互いはサブカルを共通項に惹かれ合っていくわけやけど、サブカルが好きな理由とかメインストリームに対する敵対スタンスとかは映画からは捨てられてたやん。んで、この捨象が意識的やとすると、「理由がないマン」「ハイパー消費者」をイジってるんよな。

 

 

そのほかは、別れる理由は大まかに言うとコミュニケーション不足やったと思う。

でも映画中はずっと菅田将暉有村架純の声が流れてた。コミュニケーション不足にしては声が流れてた。ということはつまり脳内の独り言で話が紡がれていたわけや。

「お互いなんでも言い合える仲(※)」をイジってる。

 

 

 

 

 

 

 

 

まあこうやって、地下1階地下2階と掘っていくことは体力を使うけれど、どこかで水が出てくることを信じるしかないよな。

本屋の入口には大切な情報が置かれていない。ポップで「虚無」が飾られているだけ。

それと一緒で表象とか記号それ自体には何も意味がなくて、地味な棚に潜む良書と出会って身を削ってまでして考えることに意味がある。と、信じるしかない。灰色の今はその行為を信じるしかない。しんど。